第165回 不思議は不思議のままで
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私は小説が好きです。
多くの物語には主人公がいて、読破したときには登場人物の人生の一部分を自分で体験したような感覚を覚えます。
それは、映像作品と異なり音や情景、登場人物の心情を読者が各々想像することで物語が完成するからではないでしょうか。
今回は、先日読み終えた小説「魔女の宅急便 5巻」の一場面を読んだ際にこのような考え方もあるのかと感じたことを思い出し、このような青臭いタイトルをつけました。
本作品はご存知の通り、魔女のキキが黒猫のジジと一緒にほうきで空を飛び宅急便屋さんをするというジブリ映画にもなっているシリーズです。
5巻のなかのある日、漁師さんが海底から見つけた古い鍵の錆を落としたところ、住所が記されており、キキに配達を依頼しました。
記された住所に配達すると果たしてその鍵にあう鍵穴をもつ小さな箱が有りました。
そこの一家と共にいざ開錠しようというところで一家のお父さんが待ったをかけ「ほんとに開けちゃっていいのかい?」と言いました。
実はこの一家では毎年箱の持ち主だった先祖が海難にあった日に開かずの箱の中身を想像し皆の前で発表してアイデアを競い合うという集まりをしていたのです。
皆思い思いに有り得なさそうなおもしろい想像を披露し、中の確認を出来ないから違うことを証明できないところが良いのだと。開けてしまったら不思議は不思議ではなくなる、もしかしたらが可能性を無限に拡げるのだと。
結局作中では開錠することなく鍵は漁師さんへ返し、漁師さんはもしかしたらいつか鍵を開けるときが来るかもしれないと楽しみに鍵を保管することになりました。
不思議は、不思議の間はずっと不思議のまま、楽しみは、楽しみにしている間はずっと楽しみ。
研究者の方々は知的好奇心から謎は解明せずにいられないかもしれませんが、このような考え方もあると思いましたので紹介させていただきました。