第153回 雑感:経済、イノベーション、そして半導体 黒木伸一郎 |
「ここ数年、各国の政府と中央銀行は狂ったように紙幣を濫発してきた。現在の経済危機が経済成長を止めてしまうのではないかと、誰もが戦々恐々としている。だから政府と中央銀行は何兆ものドル、ユーロ、円を何もないところから生み出し、薄っぺらな信用を金融システムに注ぎ込みながら、バブルが弾ける前に、科学者や技術者やエンジニアが何かとんでもなく大きな成果を生み出してのけることを願っている。・・・(中略)・・・ だが、もしバブルが弾ける前にさまざまな研究室がこうした期待に応えることができなければ、私たちは非常に厳しい時代に向かうことになる。」
サピエンス全史(下)、ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社[1].
世界の通貨供給量は2006年から2016年までの10年間で76%も膨らんだ[2]。経済がしぼむ中で、金融緩和政策、すなわち通貨量を増やして、企業の活動を活発化させ、さらに消費者の消費行動を活発化させ社会の需要を増やすことで、経済成長を行おうとした結果である。2016年の通貨供給量は87.9兆ドル(約1京円)で、世界の国内総生産(GDP)総額よりも16%多いという。また他方株式・デリバティブ・為替市場などにおける金融経済は拡大し続けている。徐々に経済成長率は回復してきているように見えるが、この埋め合わせをなんとかしてほしい、誰もバブルは弾けてもしくないし、そのクライシスの前に、なんとかソフトランディングしたい、そんな世の中の期待は、どうも(過大にも)研究や新しいイノベーションにかけられている。
何かしらの資源を安く手に入れ、それを用いて工業製品を効率的に生産し、高い値段で輸出することで、高い利潤を得る。近代資本主義のひとつの利潤増加の方法であるが、かつては先進国から新興国へ市場という物理空間を拡げながら、確実な利潤を得てきた。しかし1990年代半ばからのいわゆる低・ゼロ金利にみられるように、この方法では利潤は得られにくくなってきている[3]。他方、新しい研究や技術が垣間見せる未来への期待や夢に、そのまま敏感に経済(特に金融経済)は反応し、それを食みながら、膨張し続けているように見える。これは文字通り反応するで、何かしらのニュースは即座にスーパーコンピュータに入力され(自動的に)相場予測を行う。
余談ではあるが、現在の金融経済は超並列計算可能なスーパーコンピュータと数学の勝負である[4,5]。速いハードウェアとよいアルゴリズムをもった計算システムは、効率よく利潤を生み出す。現在は数百ナノ秒で取引の判断と実行を行っているという。だから高速動作可能な微細トランジスタを高集積化させ、更にそれを並列化した計算機システムを金融経済は求めている。なぜなら何もないところから、お金を掘り出すことができるのだから。
さてそれはさておき、半導体産業は、この10年を見ても、ユビキタス社会、IoTなどのコンセプトのもと、人々に未来への期待と夢をもたせながら、着実に達成してきた。2000年以来のグローバリゼーションにしても、半導体チップを世界に行き渡らせ、電子ネットワークでつながれた世界を創ってきたことによるものである。僕らの時代は、明らかに暴力の少ない平和な時代になってきているが、シリコンチップはこの平和な時代を支える、人々の知的・道徳的地平を広げる重要なツールとなっている[6]。
半導体集積回路でのトランジスタ集積密度が2年ごとに2倍になる、いわゆるMooreの法則と、トランジスタの微細化により動作が高速化するというDennardのスケーリングルールのもと、デバイスの集積化と高速化を行ってきたのが半導体産業である。大学・研究機関・半導体メーカ・装置メーカなどからなるこの産業は、研究・開発・生産を高速回転させ、イノベーションを達成する。この流れの中で、ある程度予測可能な形で、例えば1980年代のパーソナルコンピュータ、1990年代のラップトップコンピュータ、そして今ではiPhoneのようなスマートフォンと実現してきたわけである。私がはじめてPCで遊んだのは1980年代、日立製作所製の8ビットパソコンBASIC専用機(CPU 1MHz、トランジスタ数~1万個オーダ)であったが、私の子供世代はiPhone(CPU~2GHz、トランジスタ数~20億個)で海外の友だちと話し、EV3やArduinoで工作する。
さてこのように半導体の世界は、なにか面白いよねっ、という未来への期待と夢を語り、それを確実に実現し、この信頼をもとに、次の投資を促し行い、この循環を確実に行いその期待に応えてきた。しかし現代社会はもっと切実に、科学者や技術者やエンジニアが何かとんでもなく大きな成果を生み出してのけることを願っている。
大学の機能強化が言われて久しい。これは元々、日本では全研究費の2/3を占める民間研究費の一部を大学・研究機関に注入してもらい、大学・研究機関をイノベーションのコアとする産業クラスタを作るというのが趣旨だったと思う[7]。上に述べた現代社会の切実な願いを叶えるためだ。アメリカでは1980年代からクリントン政権時代までに、大学を中心とした産業クラスタ形成がなされたが、このもとで大学は新しいイノベーションを引き起こすエンジンの役割を果たしてきている。日本の大学とアメリカの大学ではカルチャーも違うので一概に同じアプローチをとれるわけではないが、日本国内では民間メーカの中央研究所が少なくなりつつある今、未来への夢と期待感を創造し、実際に実現するイノベーションのエンジンの役割が大学に求められている。
社会は、情報化・消費化社会[8]と呼ばれた時代を過ぎ、より研究・開発中心の時代に変容しているが、なんとなくそのことに気付いていないことも多いと思う。僕らはもっと未来への夢と期待を語り、いろんな方と一緒に研究フロンティアを開拓しつつ、この無限ゲームを遊ばなくてはならない。
さて広島大学ナノデバイス・バイオ融合科学研究所では、半導体デバイスとシステムを中心とした研究を行っているが、そんなイノベーションのエンジンになるべく日々沢山のプロジェクトが進行している。今年度の共同研究プロジェクトは50件ほど、文科省ナノテクノロジープラットホーム事業による支援も60件ほど動いている。これらの多くは産学連携プロジェクトである。2棟のスーパークリーンルームの中で、エレクトロニクス応用からメディカル応用のデバイスまでの設計・試作・評価が日々目まぐるしく繰り返されている。また大事なことであるが、そのような共同研究のなかで、さまざまな情報が行き来するオープンな環境が作られていると思う。多くの優秀な学生と研究員、企業からの研究者・エンジニアが集い、戦略を練り、研究を進めるのは正直楽しい。まずは僕らがどっぷりと未来の夢をみよう。たぶんそれが経済を動かし、世界を動かす。
[1] ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、「サピエンス全史(下)」、河出書房新社(2016).
[2] 「世界のカネ1京円、10年で7割増 実体経済との乖離鮮明」、2017年11月14日付け朝刊、日本経済新聞.
[3] 水野 和夫著、「資本主義の終焉と歴史の危機」、集英社新書(2014).
[4] スコット・パタースン著、永野直美訳、「ウォール街のアルゴリズム戦争」、日経BP社(2015).
[5] 櫻井 豊著、「人工知能が金融を支配する日」、東洋経済新報社(2016).
[6] スティーブン・ビンカー著、幾島幸子・塩原通緒訳、「暴力の人類史」(上)、青土社(2015).
[7] 例えば、内閣官房日本経済再生総合事務局、 「未来投資戦略2017-Society 5.0の実現に向けた改革-」、https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/pdf/sankou_society5.pdf
[8] 見田宗介著、「現代社会の理論 -情報化・消費化社会の現在と未来―」、岩波新書(1996).
写真: デバイス測定の風景