第144回 「マイノリティは明日のために」 吉川 公麿 特任教授 ナノデバイス・バイオ融合科学研究所
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2017年3月31日付けで広島大学を定年退職しました。1976年NECに入社して約22年間、広島大学に移って約18年間働いたことになります。最後のコラムになりますので、若い頃のことを振り返ってみようと思います。
最終講義の様子
学生時代はミリ波デバイスの研究をしていました。就職先は研究テーマに近いNECに決めましたが、入社後に取締役から「これからは新しい半導体の時代だ」と言われ、半導体事業部に配属されました。
NECの主体は通信事業部ですから半導体はマイノリティでしたが、1970年代はまだ市場が立ち上がっていないだけだと確信して全員で最先端技術の開発を進めており、とても活気がありました。その信念のとおり、1980年代後半から2000年代にかけて、半導体は産業の主役に躍り出ました。しかし、入社当時は半導体と言う言葉も一般的ではなく、半導体の教科書もありませんでしたので、知識は上司からon the job training といって、直接教わりました。私の上司は光ファイバーを発明した佐々木市右衛門課長、陽極酸化配線を発明した漁野堅一郎主任で、今の私の技術者・研究者としての体幹を鍛えていただき、心から感謝しています。
入社して3年後に、私の最初の仕事である最先端低電圧高速アナログLSIの開発が完了しました。事業部で開発しているので、そのまま量産に入り、信頼性試験をクリアして、その年に日本電信電話公社に納入しました。半導体技術の中でも、デジタルLSIが将来主流になるといわれていて、アナログLSIはマイノリティでしたが、技術開発の現場は梁山泊のような個性のある技術者集団の雰囲気があり、技術だけではなく、仕事の流儀を学んだような気がします。この現場から、今でも学会・産業界で活躍しているアカデミックな人々を多く輩出しました。あれから40年、半導体で最もホットな市場はスマートフォンの普及によるRF・アナログ・ミックスLSIですが、現在の私の研究テーマでもあるのはこれも何かの縁でしょうか。
最初の仕事を米国の学会IEDM1980に投稿・発表した翌年、東急田園都市線の満員電車の中で突然、「吉川君、英語は得意かね。」と声をかけられ、振り向くと事業部長(取締役)でした。取締役が電車通勤しているのにも驚きましたが、私の名前をご存知であったことにもっと驚きました。その場は「全く、できません。」と応えましたが、翌年にTOEFLとGREを受験することになりました。
米国留学中は半導体の主流であるトランジスタ物理を勉強しましたが、研究すればするほど、LSIの性能がマイノリティ技術である配線によって律速されるという結果ばかり出てきました。米国ではトランジスタ単体の性能改善よりRISCプロセッサーに代表されるLSIとしてのシステム性能向上が議論の中心でした。
NECに復帰後、直ちにLSI多層配線の重要性を訴え、プロジェクトを立ち上げました。3年後にCMOS多層配線技術を量産移管しましたが、世界はもっと速いスピードで進んでいました。
日本の半導体量産現場では伝統的に、前工程(フロントエンド工程)と呼ばれるトランジスタを作る工程が最も重要と考えられてきました。後工程(正確にはバックエンド工程)はマイノリティと考えられてきました。しかし、1990年代にはDRAMやCMOSでバックエンドの工程数がフロントエンド工程より長くなっており、コストに直接影響するようになっていましたが、そこを技術開発の中心とする考え方は日本にはありませんでした。
そこへ、CMP(化学機械研磨)という砥石を使うようなクリーンではない機械技術がクリーンルームと崇めていた現場に突然入ってきました。装置は米国製、研磨剤も米国製で、日本には競争力のある装置・材料メーカーが無いため、米国の半導体メーカーが購入する値段より何割も高い値段で買わされることになります。続いて、銅メッキという、これも半導体では使ってはいけないと言われていた金属が入ってきました。これによって、アルミニウムが主流では無くなり、日本が強かったアルミニウムの超高真空スパッタ・ドライエッチング装置産業が衰退しました。
日本の独壇場であった独自の半導体プロセス技術が主流では無くなり、マイノリティと思われていたバックエンド技術が米国から世界標準技術として拡散することになりました。今では、9層、10層配線は当たり前になっていますが、この工程の装置を10回も繰り返し使うことになり、この技術の善し悪しが、全体のコストに大きな影響を与えることは明らかです。世界の半導体産業は多層配線からパラダイムシフトが起こり、結果的に、オリジナリティを失った日本の半導体産業の衰退の始まりの一つがここにあります。
ところで、CMPの基本特許をNECが有していることはあまり知られていません。発明者は私の上司であった遠藤伸裕博士です。あまりにもマイナーなプロセスで当時の半導体主流プロセスからかけ離れていたため、外国出願が認められませんでした。日本国内限定特許になったことから、IBMがこれを米国で使ったというエピソードがあります。
ふりかえると、私の研究は、マイノリティの分野ばかりであったような気がします。しかし、私はそれが良かったと思っています。
マジョリティの研究は現在社会の主流ですから、相応のリソースを与えられ、今すぐ貢献する責任と義務が生じます。一方、マイノリティの研究は、現在の社会にはまだ認められていないことから、リソースも少なく、環境も良くないかわりに、新しい効果や機能を実証するというチャレンジがあり、将来必ずマジョリティになるという希望があります。
すなわち「マジョリティは今日のために、マイノリティは明日のために」。
(2017/5/1)