電子情報通信学会大学シリーズの序に書かれている修学上の心得
- “初心のほどはかたはしより文義を解せんとはすべからず。まず、大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと読みては、又さきによみたる書へ立ちかえりつつ、幾遍も読むうちには、始めに聞えざりし事も、そろそろと聞こゆるようになりゆくもの也。”本居宣長-初山踏(ういやまぶみ)
- “古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ。”芭蕉-風俗文選
換言すれば、本に書いてある知識を学ぶのではなく、その元である考え方を自分のものとせよということであろう。
- “格に入りて格をでざる時は狭く、又格に入らざる時は邪路にはしる。格に入り格を出でてはじめて自在を得るべし。”芭蕉-祖翁口訣
われわれの場合、格とは学問における定石とみてよいであろう。
- 教科書で勉強する場合、どこがessentialで、どこがtrivialかを識別することは極めて大切である。
- “学習これを聞(もん)といい、絶学これを鄰(りん)といい、この二者を過ぐる、これを真過という。”肇(じょう)法師-宝蔵論
ここで絶学とは、格に入って格を離れたところをいう。
- 常に
(1)疑問を多くもつこと、
(2)質問を多くすること、
(3)なるべく先生をやり込めること
等々を心掛けるべきである。
- 書物の奴 隷になってはいけない。
要するに、生産技術をmasterしたわが国のこれからなすべきことは、世界の人々に貢献し喜んでもらえる大きな独創的技術革新をなすことでなければならない。
これからの日本を背負って立つ若い人々よ、このことを念頭において、ただ単に教科書に書いてあることを覚えるだけでなく、考え出す力を養って、独創力を発揮すべく勉強されるよう切望するものである。
(ここからは私のコメント)
これが書かれたのは、昭和55年7 月1日となっている。西暦では1980年である。まさに日本が“Japan is No.1” に向けて突き進んでいたころと思う。この後も、バブルがはじけた後、数年ぐらいまでは、「どのように作るか(How)ではなく、何を作るか(What) が大切だ」などと盛んに言われていたことを思い出す。
上記の先人の言葉は、(最近十分年を取ったせいでしょうか)全くその通りだと感激すらしてしまう。数学、物理の世界にせよ、工学でさえ、歴史に偉大な業績を残した 天才と称される人々でも、格に入りて十分に過去の考え方や成り立ちを自分のものとして、格から出でて驚嘆する全く新しい考え方に到達したと私には感じられる。格に入りて自分のものとする過程で、努力や苦労を天才本人が認識していない、苦労や苦痛とは全く感じず、むしろ喜びにすら感じるところが天才としての最初の(そして必要な)才能ではないだろうか。
才に恵まれた人は別にして、我々凡人は 初心のほどはかたはしより文義を解せんとはすべからず。まず、大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと読みては、又さきによみたる書へ立ちかえりつつ、幾遍も読むうちには、始めに聞えざりし事も、そろそろと聞こゆるようになりゆくもの也。
と思う。