第57回 「トゥーランドット姫は電子産業の夜明けを見るか?」
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エルピーダの経営破綻がニュースを賑わせました。これに前後して、化学専攻の私は次代の半導体産業を支える若手を育てる職に就くことを決めました。その採用が正式決定した翌日、私の赴任先となる豊橋では、とあるオペラ団体のコンサートが開かれていましたので拝聴しました。さらにその翌日、私を育ててくれた広島のオペラ団体の公演も観劇しました。意外に両団体の来年の演目は『トゥーランドット』。そういえば、前職の藤沢で演じた最後の演目もトゥーランドットです(http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/bunka/opera/2005.html)。いろいろ思うところがあります。
プッチーニ作曲のこのオペラ『トゥーランドット』はフィギュアの荒川静香選手がトリノオリンピックで金メダルを取ったときのBGM「誰も寝てはならぬ」で有名なオペラです。竹取物語と同様に、結婚に無理難題を課す謎解き姫のお話。姫の強すぎる貞操感が災いして求婚者の首は次々とはねられることに。それでも挑戦者が後を絶たないほどの絶世の美女。首切り姫と言えば聞こえが悪いですが、姫は結婚がいやで、求婚されないように首をはねるという掟を布告するように皇帝である父に聞き入れてもらいます。しかし掟に沿って何十人もの首をはねることになった後となって皇帝はその神聖な掟を決めたことを後悔する毎日となっていました。ところがある勇敢な異国の王子が難問をクリアーしました。それでも嫌がる姫に皇帝は「これも神聖な掟である」となだめます。すると異国の王子は譲歩するがごとく1つ謎を出します。姫はその答えにたどり着くも自らの意志で結婚に応じるというハッピーエンドのお話。
ベースのお話は中央アジアで千年くらい前に生まれたらしく、ちゃんとした原作がフランスで成立したのはフランス革命前。そしてオペラ作曲はフランス革命後です。原作ではあらゆる登場人物が首切りを歓迎はしていません。プッチーニはおそらくこのオペラの前半で、フランス革命さなかのパリ市民が首切りショーに沸いていた狂気の時代を描いています。オペラの時代のほぼ最後に位置する大作曲家の遺作にふさわしい重厚な和音を、オケピットに収まらないほどの楽器と大規模合唱が奏でます。人の心を忘れた市民たちが、破滅を待ちわびる。そんなシーンが描かれています。そしておそらくオペラ最終シーンでその対比となる次の時代も描くはずでした。プッチーニは当初からこのオペラ最後に置かれる二重唱を際立たせることを主眼においており、そのために原作にも修正を重ねました。原作の前半、終盤を大幅にカットし物語を一夜の話として、クライマックスの時間帯を早めて夜明けの時刻としました。原作では不可解だった最後のどんでん返し「姫が突然結婚に同意する」理由を描くべく、原作では結婚同意後に出てくるサブキャラの死というエピソードを二重唱の手前に置きました。しかし、そのエピソードまでの作曲と、最後の二重唱のスケッチを作ったところで病弱だったプッチーニ自身の容体が急変してお亡くなりになってしまいました。今日の私たちが聴くこのオペラの終盤は、当初から初演を振ることが決まっていた大指揮者トスカニーニの監修で、そのスケッチをもとに別の作曲家、アルファーノにオペラを完成させてもらったものです。紆余曲折を経てオペラ台本は最終稿と呼ばれる状態になっていました。作曲スケッチもありました。現状の補作版は、和音がシンプルすぎるなど補作者の力量不足があるものの、プッチーニが思い描いたオペラにずいぶん近いはずです。ただこれまでも遠慮なく製作途中に前言を撤回して修正を重ねたプッチーニなら、もう少し何かを変えたのかもしれません。変えたんじゃないかなと予想します。サブキャラの死があまりに上手く書けているので、最後の二重唱はそれを超えないと話が成立しないのに、ちょっと終曲が弱いんですよね。サブキャラのエピソードを絞るはずのプッチーニが、ここではむしろ失敗した、ともささやかれています。
さて、このオペラには3つの意味の終焉が含まれています。ひとつはオペラの時代の終焉。およそ1600年頃イタリアで歌を伴った劇が発達し、とくにバロックという時代を切り開いた天才モンテヴェルディが現代でも通用するオペラをこの頃書き上げました。それから300年、経済の発展とさまざまな技術との融合でオペラは娯楽の最高位にいたのですが、映画やラジオ、テレビなどのメディア技術がオペラを最高の舞台から引きずり降ろしてしまいました。このオペラ最後の時代の花形作曲家の地位にいたのがプッチーニです。広大学士会館内のレストランの名前にもなっている『ラ・ボエーム』の他、『トスカ』『蝶々夫人』などオペラハウスが定番に掲げる有名演目を多数生み出しました。そんな実質をともなった華やかさの世界で、はからずも最後の作品となったのがこのトゥーランドットです。二つ目はプッチーニ自身の終焉。存命中からこれだけの成功を収めた人で、すでに大御所となり、死期を悟るというほどでないものの自分が世に送ることのできる残り少ない作品として書き始めた作品でした。そして書ききることができないまま他界しました。三つ目は物語が描こうとした狂気の時代の終焉。第1次世界大戦を終え、戦勝国ながら混沌とした時代を迎えていたイタリアで、平気で人が死ぬということを狂気として扱い、それを否定する作品を生むのは当時の芸術家として自然な流れでしょう。首切りシーンを原作以上に書き込み、冷酷な姫という問題でなく、むしろ市民の狂気という世界全体の問題として書き上げました。
しかし否定するだけなら凡人のやることです。かつてない新しいことをやるにふさわしい物語を探し続けてたどり着いたお話。どんでん返しを描くクライマックスの二重唱に賭けるものがあったはず。
それは偉大な二重唱でなければならない。これら二人は――いわば、現世の外に立っているこの二人の男女は――愛を通じて真の人間になるのであって、しかもその愛は、管弦楽が力強い終曲を奏でる中で、舞台上のすべてのものを包んでしまわなければならないのだ…(1921年秋)
トスカニーニ君は、たった今ここを去った。我々は例の二重唱のことを論じあったが、彼はその出来をあまり感心しなかった。いったいどうしたらいいのだろうか?私には分からない。(1924年9月7日)
それ(台本作家から受け取った二重唱の歌詞)は、本当に美しい。これで二重唱は完全になり、正しいものとなるだろう。(1924年10月8日)
『プッチーニ』(モスコ・カーナ著 加納泰訳 プッチーニ(1924年11月29日没)の書簡より
そういえばエルピーダ破綻を受けた多くのコラムが時代の終焉を語りました。DRAMって終わコンでしたっけ。
化学の世界から来た私には、半導体業界の空気をかなり異質に感じます。中でも驚愕なのがムーアの法則を基盤とするロードマップの文化です。たしかに化学の世界でも1,2年先程度のことは、細かく開発・商品化スケジュールが決まっていたりします。しかし、時間軸に沿って安定して開発が進むパラメータはまずありません。一定ペースで微細化が進み、その1パラメータに合わせて進化し、過去の自社商品をどんどん陳腐化させる。むしろ自殺行為ともいうべき業界の法則をだれもが受け入れている。この業界についても、狂気とすら感じます。
また一方で繊維メーカーにいたものとして、最近のエルピーダ経営破綻に向けた論調を奇異に感じます。単一商品を扱っている、という部分以外、これらのコラムがダメだと指摘する要因のほとんどをかつての東レも持っていました。実は私も入社してしばらく経つまで、斜陽産業の繊維に未来はないと何も知らないまま思い込んでました。小泉・竹中経済改革直前、3月危機、9月危機と経済論者が煽っている中、東レが70年超の歴史で初の赤字を出した頃です。意外にもその繊維事業は、その後、ユニクロを支え、ヒートテックを産みだしました。さらに炭素繊維でボーイングの新型機を飛ばし、新事業のPDPで松下のV字回復を支えるとか。そんな賑やかな話を社員として聞いていられたのは他部署ながら楽しかったです。40年くらい前、有名大学の理系のトップ成績で、さらに入社後にも高い行動力、統率能力で成果をあげた人たちが、いまこの会社のトップにいる。全社的に危機意識を共有して、雇用は守りながら開発力を高め、コストを下げて、繊維に過度な期待を持たない成長戦略。経営のことはよくわかりませんが、あちこちのコラムが指摘するような問題は紙一重でどちらにも転ぶようなところだということでしょう。
さて、トゥーランドット。この狂気の国にやってきたのは異国の王子です。姫の問いに答えて見せた王子は逆に問いました。「私はだれか?」。夜明けまでのわずかなタイムリミットに向けて姫は街中に布告を出して市民を巻き込みました。彼の名前を探せ。探せなければ全員処刑だ。だれも寝てはならぬ。この布告を横で聞きながら「『だれも寝てはならぬ』ですか。勝つのは私ですけどね。」と歌うアリアが有名な「だれも寝てはならぬ」です。サビ直前で市民たちが「わたしたち死んじゃうの」と怯えるひとフレーズを歌います。そこだけ取り出すと、民衆を恐怖にたたき落とす酷い王子と王女なんですけど、結論は実は違うんですよね。姫が出した3つの謎、3問目の答えは姫の名前。王子が出した唯一の謎の形式的な答えは王子の名前。結婚に向けた問答ならではの設問でもあります。しかし王子の名前自体は本当の答えではありません。原作の表現で言えば、「国中の学者を集めたくらいの知恵者」同士の問答です。名前も大切なことですが、閉塞感のある狂気の時代に終止符を打つほどのものではありませんよね。これから迎えるべき世界そのもののキーワードが問われていました。
サブキャラである、異国の王子の使用人であった娘は、形式的な答えである王子の名前を知っていました。さらにこの娘は本当の答えを兼ね備えた人でした。形式的な答えを秘密を守り抜くために自害します。しかし死の直前で何度も本当の答えを口にします。答えだからこそ、原作とは異なり、最後の二重唱の前にこのシーンが配置されたはずです。しかし姫にも、大臣にも、学者にも、居あわせた市民たちにも、それがダイレクトな答えであることとしては届いていません。ただこの娘の死を通じて徐々に何かを理解し始めます。でも狂気の世界の流れに沿って娘を追求し、死に追いやったのです。命令を出すのは姫ですが、それを支持し浮かれるのは市民でした。
このオペラで最終台本での本当の答えは愛でした。この狂気の国を救う異国の王子とはだれかという意味で、愛が答えです。
回答期限は夜明けまででした。あらゆる学問に精通したトゥーランドット姫は異国の王子の「カラフ」という名前を王子自身から教わったところですべてを悟り、皆を集めてその答えを高らかに歌い上げます。時刻としての「夜明け」と、この国の新たな「夜明け」。これらを表現した愛に満ちたオーケストレーションの最終版は、音響としてでなく、一部の聴衆の心の中だけでしか鳴り響かない、そんな神の領域の音楽になってしまいました。プッチーニはスケッチまで残した。アルファーノはよくやった。トスカニーニはよく導いた。残りを現代の演出家が作り上げ、その舞台に立つ役者たちが演じきれるか、という難しい作品です。そのスペクタクルを動かす舞台裏のみなさんも、その予算をかき集めるもっと運営サイドのみなさんも、ほんとご苦労様です。もはや入場料収入だけでは成立しない世界にいっちゃいました。
プッチーニは天才作曲家ですが、作品の生み出し方に特徴があります。それはチーム作業です。プッチーニの前の時代に、ワーグナーとヴェルディという二人の巨匠がいました。プッチーニはこの二人に大きな影響を受けています。劇作家を志しながら突然作曲に目覚め、自作で台本と作曲の両方を手がけることができたワーグナーの存在を熟知していた彼は、台本の重要さを高く意識していました。大学を出たばかりの頃はすぐれた台本作家に出会うことを求めていたものの、早くから台本作家を自分で使い倒す方式を採り始めました。斬新なストーリーを描く作家と、ハイセンスな言葉を当てはめる作家一人ずつにプッチーニを加えた3人のチーム。さらに加えてもう一人。楽譜屋さん。楽譜屋は、遠慮なく書き直しを指示し続けるプッチーニにぶち切れの作家たちをなだめまとめる役でした。プッチーニは総合芸術を一人で生み出せるほど、底なしの天才ではありませんでした。しかし理想の作品に忠実な天才作曲家です。客が満足できるように修正を繰り返す。度重なる書き直し指示に結果的に応じた作家たちも、そのコーディネイトをやりきった楽譜屋もすばらしい。自己満足でなく、そういう商業主義に支えられたチームだからこそ、多くの人が共感する優れた作品を生み出し続けることができたはず。
ふと任天堂Wii Fitの開発物語を読んだとき、プッチーニの伝記に描かれている世界に似ていると感じました。任天堂の人たちはだれも成功したことのなかった体重計のエンターテイメントを、ゼルダの伝説の次回作を作りたくて入社してきたようなメンバーで開発してみせました。一旦決まって動き出したはずの事項を、つまらなくなりそうなら遠慮なく白紙撤回するというプッチーニの手法は、任天堂社内で「ちゃぶ台返し」と呼ばれているそうです。ちゃぶ台返されちゃった担当者の心中お察しいたします。ですが、優れた商品の恩恵を受けるユーザとしてはありがたい話です。
任天堂に限らず日本の会社が成功するということは、たった一人の天才がすべてを切り開くというような話ではありません。たいていチームの仕事です。もちろんずいぶん頭のいい人、器用な人たちがよってたかって、体に悪そうな苦労をした末になんとか生み出されます。よくないチームはみんなで決めたことだからと謎の決まり事に縛られて、みんなで苦労してつまらないものを作っていきます。本当に仕事ができる人は、一時的に迷惑でも、ともかく変なことになりそうなら「ちゃぶ台返し」をやります。トップが一人で「ちゃぶ台返し」をやっているわけでなく、必要に応じてそのときどきだれかがやるようです。そんなチームだからこそ、優れたオペラが生まれ、優れたゲームが生まれ、繊維の不況とも渡り合えたはずです。
チーム運営とは。わがままを通せということではありません。直感で勝負しろというわけでもありません。ちゃぶ台返しが許される環境であることが大事です。今どきなら、明確な目標を持って、自分のスペシャリティを持ちながら、常に相手をレスペクトし、声を掛け合って、ポリバレントに、積極的に無駄な動きをする。そういう考え方を共有すること。これで、結束と連動と感動が生まれる。日本人向けのチーム運営はサンフレッチェサッカーが見せるそんな哲学から来るのかなと思っています。そんなチーム運営もこれから必要な器用さの一部かと思います。
長らく、この電子産業の業界に若者を送り込むことに荷担して良いか、自問自答していました。このままの業界というなら否定的に捕らえています。20年ほど前、ちょうど私の同期が社会に出る頃、とくに頭のいい人が入社、配属された先。それがこの業界です。今やそのだれもが危機感をもってます。しかしその危機は単純にこれまでの一本道をいままでどおりまっすぐ行くと壁にぶち当たるという、他業界では普通に当たり前の話です。多くの解決への糸口が提示されています。どれが本当の答えかわかりませんし、私が例の「異国の王子」だと言うつもりもありません。もちろん沈んでいく船に乗ることはお薦めできません。戦争末期、戦艦大和を建造したのは愚策だと思います。だけど時代が変わって船頭多くしてその船を宇宙に飛ばすなら、そんな船に乗ってみる人生、楽しいですよね。器用にこの業界を渡っていけば、たぶんみんなでおもしろい夜明けに立ち会えるでしょう。
長らく、これからこの電子産業の分野に優秀な若い人材を送り込むことに荷担していいのだろうかと自問自答し続けていたのですが、ようやく不安が減ってきました。
(2012/3/30)