第38回
「激動の時代を生きる」 榎波 康文 >> 教員紹介ページ |
レーザ、光、フォトニクス分野における研究者はその最先端の研究成果をCLEO(Conference on Lasers and Electro-Optics)において発表する。光分野でのノーベル賞受賞者の多くや日本からもレーザのパイオニア達が発表してきた光分野における最も権威と歴史を有する国際会議である。光分野ではCLEOを発表することがステータスになっており、CLEOから派生したOFC(Optical Fiber Communication Conference)においても世界中のトップクラスの研究成果が発表される。CLEOは発表数を限定しているため、近年では日本やアジア、オセアニアからの発表者のためにCLEO Pacific Rimが開催されるようになり、今回初めてPacific Rimでの発表を行うために初めてオーストラリアに行ってきた。日本からは10時間程度で行くことができ、アジアナ航空を利用すれば広島空港から韓国の仁川空港経由で東京に行かなくてもオーストラリアに行くことができる。広島から仁川について10分でオーストトラリアの出発ゲートに移動できる極めて交通の便のよい所であった。海外の空港をみるたびに日本の空港の移動の不便さを感ずる。今回台風がきており、JALやANAは成田から広島行きを欠航したが、アジアナは広島行きを欠航しなかった。悪天候時の操縦技術も日本の民間パイロットより優れているのではないかと感じた。次回のCLEO Pacific Rimは京都でおこなわれるとのことであるので、ぜひ次回も参加してみたいと思った。
フーリエ変換は電気工学では広く使用される応用数学であるが、光学分野においても広く用いられてきた。その中でスタンフォード大学のGoodmanとその弟子であるアリゾナ大学のJack Gaskillが特筆すべき研究を行ってきた。1995年SPIE presidentを勤めた Gaskillは空軍の戦闘機パイロットとしてベトナム戦争を経験してきた。彼は授業で冗談を多く言うのが好きであったが、あるとき真面目な顔で"Life is hard, but after we know life is hard, life becomes easier"といったことを覚えている。
アメリカの大学にはアメリカ人以外に多くの人種が教員や学生として勤務している。イラン、トルコ、ベイルートなど紛争が絶えない中東地域からも多く学生が来ており、トルコの学生は夏休みになると軍事教練のために数ヶ月トルコに帰らなければならない。日本には徴兵制度がないため、あまりぴんとこない。アジアからの学生は台湾、韓国、中国が多いが、中国以外のアジア諸国やヨーロッパ諸国には徴兵制度や社会奉仕義務があるため、多くが2年程度大学を離れてから大学院に進む。あるロシア人の博士課程学生は「徴兵でこのままだとチェチェンに送られて戦死するのが落ちだ」といってアメリカに来たといっていた。戦前の日本でも徴兵制度があったため他のアジア諸国やヨーロッパ諸国と同様であったことが、現在の日本人の感覚では奇異に思えるかもしれない。
日本の大学院に進んでも登校拒否になる学生がいると聞く。日本の大学に進めるだけの経済的余裕が両親にあり、学力に優れた学生がなぜ登校拒否になるのか理解できなかった。最近では大学院に進めば2年間遊んでいられ、修士課程での業績は全く考慮されないで一流企業に就職できると多くの賢い学生は考えているとのことである。また、日本的な叱咤激励を大学に入学するまでされた経験がないため、厳しく指導されると自分の人格が否定されるように思う学生が多くとも聞く。一般に「自分に甘い人間は他人に厳しい」傾向もあるので指導方法にも問題はあるが、日本に外国のような兵役義務があれば、厳しく指導されたくらいで学校に来なくなる学生も少なくなるのではないかと思う。また、一度社会にでれば、大学とは比べられないくらい厳しく上司から指導されることもあるし、顧客先から罵倒されることもあるであろう。挨拶や話をしなくても問題が起きないのは大学の中だけである。海外のように兵役や社会奉仕義務もなく、優しい先生達のなかで学部修士6年間生活を続ければ立派な挨拶のできない人間になれるであろう。
アメリカの理工系大学院に進む学生はほぼ全員がPh.D.に進むことを希望するが、Ph.D.研究に進む前に大学院過去2年間にわたり修得した授業を全て網羅する資格試験があり、これに合格しないと修士のみ与えられ退学させられる。したがって、アメリカの理系大学院において最終学歴が修士であることは日本とは異なる印象を与える。この為に資格試験前に多くの学生は精神的に追い込まれる。大学に来ないことはありえない状況もある。
日本の大学の卒業式の式辞は眠気が襲うような話ばかりであるが、スティ-ブ・ジョブズが2005年にスタンフォード卒業式で行った有名な式辞を聴くと、大学に学べることの幸せさを感じるであろう。ジョブズが生まれる前に、育てる状況が厳しい産みの親は労働者階級の貧しい夫婦に養子に出すことを決意する。しかし、産みの親はその際の条件として大学に進ませることを契約書に記入していた。ジョブズが学んだ大学半年間の授業料が労働者階級の両親が貯金したお金の全てであり、彼は考えて大学を中退せざるをえなかった。大学を6ヶ月で中退しても空き缶集めをして現金に換えながら、ホームレスとなり密かに2年近く大学で興味のある講義を聴講した。その際に受けた授業内容が将来のアップルコンピュータの美しい字体の原型となった。自宅の車庫で二人だけで始めた会社を成長させたがその後、自分が作った会社の役員会議で解雇されNEXTを作った。低迷するアップルはNEXTを買い、ジョブズは再度アップルに帰った。もしかするとコンピュータも現在のようなグラフィックな字体とは遠い存在であったかもしれない。これらの点と点が結ばれることは自分自身も含めてだれも予測できなかったが、最後に自分がやった仕事の点が結ばれたと話している。明日死ぬかのしれないと毎日を仕事に取り組めば、他人がどう思おうが他人がなにをしていようが気にしている暇は無いはずであり、自分自身の心と直感に素直に従い、勇気を持って行動することを述べている。最後にStay hungry, stay foolishといって締めくくっている。
http://www.youtube.com/watch?v=geoE_oKzISA&feature=related
アメリカではベトナム戦争や2000年ITバブル崩壊、2001年の911テロリスト攻撃とイラク、アフガニスタン戦争、2008年不動産バブル崩壊など多くの経済的な変化が頻繁に起きるため、いつでも解雇の恐れがある。公務員も例外ではなく、子どもが通っていたツーソンの高校の教師は1校で20人近くがショック後に解雇され、現在でもツーソンの警察官や消防隊員の多くも解雇され続けている。アメリカの大学に勤める知り合いは、アメリカの企業に研究者として勤めていたが、ITバブル後にある日出勤するとその日はPCにログインできなくなっており、その後2時間以内に私物をまとめて出て行くように言われ解雇されたということである。日本のような労働組合がないアメリカでは全てが自由競争であり、あらゆる場所で自然淘汰がなされている。物を作らない国家の多くが金融取引だけで国家経済を発展させようとした結果がこのざまである。
911テロリスト攻撃直後にはイスラム教徒のメールは全て監視下に置かれ、無差別に拘束されて尋問されるとの噂が広まり、キャンパスから一斉にイスラム教徒の学生が消え、多くが帰国していった。中東の優秀な学生の多くを日本の大学が獲得するチャンスであったが、日本にはその気配はみられなかったし、現在も同様である。
リーマンショック直後には、アリゾナ大学を含めて多くの州立大学は財政危機になり、事務員の多くが解雇となり、教員もテニュア凍結や新規採用凍結措置がなされてきた。テニュア取得困難になったことは間違いなく、これが原因かどうか解らないが2008年以降光科学カレッジの教員をやめて大学を去ったテニュア取得前の教員も数人いた。ちなみに、2004年ノーベル経済学賞を以前受賞したVernon Smithはアリゾナ大学に25年間勤務し、ノーベル賞受賞の研究をアリゾナ大学でおこなったが、2002年に研究費を獲得できなくなりアリゾナ大学を去り他大学に行かざるを得なかった。テニュアを取得していても自分の居室や実験室の使用料金、学生への給料は外部資金から支払わなければ成らないため、ノーベル賞受賞するほどの研究者であっても、研究費を獲得できなければ大学を去らなければならない。まさしく、Life is hardである。
現在、JSPS外国人特別研究員の劉さんが私の研究室に勤務を始め、最後のラストスパートを彼と共に研究できるため、研究の動機付けが近年非常に高くなった。その一人の劉さんは60本近くトップジャーナルに論文報告を行ってきた研究者である。ようやく研究を推進するための環境が整った中で、8月にアメリカの学会場所で私の所属した研究室に勤務していた研究員や以前リサーチプロフェッサーであった人達と再会した。現在は全てが他大学で教員を務めていた。その中の一人Bernard Kippelenは Georgia Techの教授になっており、日本で被害に遭った人たちの冷静な対応についてアメリカ人は驚いていると言っていた。彼はアリゾナ大学にいるときは、色々と癖のあることを言ってきたが、1990年代からNatureやScienceに論文投稿をし、フォトリフラクティブポリマを使用したフォトニクス分野のブレークスルーをなしてきたトップ研究者である。現在ではフォトリフラクティブポリマを使用した「動く3Dフォログラム」も実用化前まで研究されている。
http://www.uanews.org/node/35220
彼はアリゾナ大学でテニュアをとり多くの外部資金を獲得してきたが、大学研究施設の完成が数年遅れたため、実験場所に困り他の共同研究をする2教員達とまとめてGeorgia Techへ移っていった。彼は私が日本の大学で勤務していることを喜んでおり、日本で地道に研究成果を積んでゆくことがベストだとアドバイスしてくれた。アリゾナ大学の時には考えられないほど円くなっていたので驚いた。アメリカの大学では研究者同士や学生との間でも大声で怒鳴りあうような議論をする場合もある。日本の一部の大学のように上下関係が決まっていて、一方的に上から下へ怒鳴るのではなく、研究に関して立場は全く関係なく議論が繰り広げられる。彼はフランス人気質からか議論を望むタイプであったので、あるときは他のレバノン人研究者や中国人研究者と対立することもあった。日本では研究室は家族のような関係であるため想像できないが、アメリカでは日々が戦いであり隣の部屋まで白熱した議論が聞こえることがある。
アメリカ経済崩壊後の再建は研究成果に基づく新規起業が支えてきたが、日本での研究は暇つぶしの道具くらいにしか思われていない。その根拠として事業仕分けによる研究打切りや震災による科研費3割カットがある。私の研究への動機付けがかなり落ちていたが、アメリカで活躍するBernardから激励され私も研究に対する情熱が再度あふれてきた。現在のような制約された研究環境であと10年以上仕事をしろと言われれば体が持たないが、数年であれば可能である。日本も戦後はアメリカのように動乱期の連続であったが、それがために経済が成長した。Hungryでいることは必ずしも悪いことではなく、むしろ常に満腹状態で全てを自動的に与えられ安住している方が精神的に人間を堕落させる。貧しい間は皆が工夫をして何とか生き延びようとするが、経済安定期にはいい加減な仕事をしてすごしても多くがそれなりの給料をもらって年金生活を迎えられるようになる。災害は日本の悲劇であったが、災害復興は日本復興の起点になるはずである。Bernardは来日したこともあり、戦後日本が復興したように、震災後も日本が復興することを信じているともいってくれた。
海上自衛隊の輸送鑑「おおすみ」(呉)から灯油や簡易トイレを石巻市内へ運び込む輸送用ホバークラフトLCAC
3月20日午後、宮城県石巻市(早坂洋祐氏撮影)
http://photo.sankei.jp.msn.com/highlight/data/2011/03/20/hover/ 産経新聞より
「老人の老人による老人のための社会」が日本社会であった。既に定年を迎えた日本の労働者や公務員はそうであったが、現在の学生はこれまでの日本とは全く異なる混乱の中で生活して行かなければならない。そのためには、公務員になるか、あるいは自分を鍛え上げ、生き残るために必死になって何かをつかまなければならないであろう。したがって、大学をさぼってもそれが将来の人生で決して点と点を結ぶ直線にはならない。休んで人生を無駄にしている暇は無いはずである。
最後に私自身も日本の大学で研究できたことを感謝するとともに、一学徒として残された人生と仕事に取り組みたい。
(2011/9/20)